新説・日本書紀⑰ 福永晋三と往く
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2018年(平成30年)9月1日 土曜日
神功皇后① 東鯷国挙兵し豊国に進軍
正体不明の仲哀天皇
台与と成務の2代にわたって封建制(天子の下に、多くの諸侯が土地を領有し、諸侯が各自領内の政治の全権を握る国家組織。中国周代に行われた)から郡県制(中国の地方行政制度。春秋戦国から秦代にかけて、全国を郡・県などの行政区画に分け、地方官を選任して行政を執行させた)に移行したようだと記した。これと対応するのが「先代旧事本紀」の国造本紀の記事である。
神武から景行までは39国造であったのが、成務の時に63国造が任命され、国造が増えた。当然、筑豊を中心とした豊国内に全ての国造が任命されたとは考えにくい。倭国の領土が拡大したようだ。新領地の国造に任命されたのが筑紫物部氏のようである。物部氏の東遷を考えてよいだろう。
例えば、尾張国造は「天火明命の13世孫の小止与命を国造に定められた」とある。また、珠流河(駿河)国造は「物部連の祖大新川命の子の片堅石命を国造に定められた」とある。この両者を含めて63国造が任命された。これらと並行して、前方後円墳が東に広がっていく。起点は、豊国ではなかろうか。
倭国拡大の最中、14代仲哀天皇が即位する。書紀には「日本武尊の第二子」とあるから、本来は筑豊の王であろう。
古事記によれば、成務が355年3月に没しているので、355年の即位か。さらに、「帯中日子天皇(仲哀)、穴門(関門海峡周辺)の豊浦宮と筑紫の詞志比宮(香椎宮)に坐して、天の下治らしめしき」とあり、近畿地方で天下を治めたとは書いていない。
ところが、書紀では「角鹿(敦賀市)に行幸し、笥飯(気比)宮にあった時、熊襲が反乱し朝貢しなくなったので穴門に行幸した」とある。
つまり、豊国の仲哀と東鯷国の仲哀が存在したことになる。記紀を読み比べると、仲哀は複数の場所で死に、複数の墓に葬られている。まことに不可解な天皇だ。また、古事記の仲哀記はその大部分が神功皇后の記事で埋められている。仲哀は「訶志比宮で熊曽国を討とうとし、琴を弾いて神託を得ようとするが、琴の音が絶えて崩御した」とあり、以後、神功が熊襲を退治する。
神功皇后気比から穴門へ
書紀の仲哀紀に妙な逸話がある。
仲哀が父を慕い、諸国に白鳥を献上せよと命じた。越国(福井県か)が4羽を献上しようと菟道河(香春町金辺川)のほとりに宿った。仲哀の異母弟蒲見別王が「白鳥であっても焼いたら黒鳥になるだろう」と言い放ち、白鳥を強奪した。仲哀は憎み、軍を派遣して誅殺した。
豊国の仲哀の話とすれば、豊国に皇位継承の争いが起こったようだ。
この記事の翌年(356年)、神功皇后が角鹿を発つ。卑弥呼の時代に都怒我阿羅斯等が移った地である。神功は東鯷国を発した。皇后は、円山川をさかのぼり、但馬国一の宮「粟鹿神社」の所で船越し、加古川水系を下り、瀬戸内海に出た。加古川河口の住吉一族を味方に引き入れた。岡山県牛窓で「大牛に化けた新羅の沈輪を、老翁と化した住吉明神が角を持って投げ飛ばした」と風土記逸文にある。「牛転び」が転訛して「牛窓」になったそうだ。山口県下関市の忌宮神社でも新羅の塵輪を退け、皇后は豊浦津(忌宮神社)に停泊し、「如意玉を得た」とある。如意玉とは、下関市長府沖の満珠島・干珠島を指し、ここを占拠したようだ。
神功皇后の征西、すなわち豊国征伐が幕を開ける。
次回は15日に掲載予定です
大日本帝国時代の一円札に描かれた神功皇后
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